気がつけば残すところあと5話・・・康熙帝が亡くなり、すーいぇ(四爺=第4皇子)が雍正帝として即位することに
なりましたが、ここはいろいろ問題ありの即位だったようで・・・史実では
康熙帝の遺詔は隆科多(ロンコド:康熙帝の皇后の弟)が病床で聞いて、
第四皇子に伝えたとのことですが、これが後の憶測を呼んでしまった
原因なのですね。
ドラマでは四爺は、隆科多より前に直々に皇帝から次の皇帝に
自分ではない名を聞いてしまい、“こと”に及ぶような描かれ方をしてました。
そのあとの粛清も残忍に描かれ、自分の身代わりのように幽閉されていた
しーさんいぇ(十三爺=第13皇子)と浣衣局に移されていたるぉしーを救いたい
一心で、もしかしたら、皇帝の命を縮めることもしたのか?とも思えるような感じ。
その後の粛清も確かに秘密を握っている人物は仕方ないかなとは
思う(しかないねい)けど、ぱーいぇ(八爺=第8皇子)一派への締め付けは
必要なのか?と観ているこちらも、好い人なのか残忍な人なのか、
不思議な感覚に陥って実際はどうなん?とちょっと調べてみることに(笑)
まずは、雍正帝について書かれている有名な本から読んでみました♪

雍正帝
―中国の独裁君主
著者:宮崎市定
出版社: 中央公論社(中公文庫)
1996年5月刊
小難しくなく、とても読み易すい文章で
何より、雍正帝への愛を感じました♪
康熙帝と乾隆帝の間に挟まれ、
13年という短い統治で
忘れられているような存在を憂いて
書かれたような印象ですが、
なるほど、と思えることがかなりあり、過労死したのではと
哀れられるような働きぶりに、頭が下がる思いです。
皇帝になったのも、継承順位からも、
皇帝になるべく育った環境(養母は第二皇后)からも
冷静にみれば自然なことのように思えますし、
その後の粛清も反雍正帝派を
押さえるには必要なことだったと思えてきます。
たとえ兄弟でも即位したからにはその関係は
君臣であり、それ以上のものはないのです。
何より、父に倣い不正や賄賂横行の原因ともなる官吏の結束を嫌い、
朋党を禁止する手前、兄弟間の結束を見せしめのように
弾劾したのでしょう。それは皇帝として必要なことですが
罰せられた方は面白くないし、王室スキャンダルは
庶民の楽しみみたいなものですから、反雍正派から
流された話はどんどん膨らんでしまっているのでしょう。
けれど、そんなことぐらいで揺るぐ雍正帝ではありません。
昔から天下を治める道は外にない。ただ命令を下す時に、と、勅論のなかで書いているくらいですから、肝が据わった
それが道理に叶っているかどうか、丁度事態に適するか否か
ということだけ考えるべきだ。それが人気に投ずるかどうかは
毫も(=少しも)顧慮する必要がない。天下の人数は無限であり
それぞれ考え方も違うだろう。人の口には戸が立てられぬものだ。
(P97)
人物だったと伺われますが、そこには密偵政治の裏付けが
あったのだとは思います。これが怖いのですけどね(笑)
これを1冊読んだくらいでは、到底理解はできませんが、
ドラマを観ていて、どうして?という部分は少し
薄らいだ気がしますし、何だか私までファンになりそう・・・
ドラマのではなくて、ご本人のですが(笑)
この本についてはYoutubeに面白い映像(?)がありましたので
一緒にご紹介します♪
『雍正帝ってこんな人』宮脇淳子
宮脇淳子先生によると、コスプレ好きな、
お茶目な人だったらしいですね~♪
ドラマをそのまま信じることは誰もしないでしょうが(笑)
どんどん印象がわるくなるので、フォローが必要かと・・・
あと、ドラマは登場人物が歳を殆どとらないので
時間の経過がよくわからなくなってきますので、
簡単ドラマ年表をつくってみました(笑)
ちなみにるぉしーに張曉が入り込んだ時のるぉしーの
年齢は16歳らしい・・・原作では14歳らしい・・・原作は読んでいないので、
史実に彼女の行動をあてはめてみました・・・ので、彼女の年齢には
若干のずれがあるかもしれません。そこはご容赦を。
ドラマのネタばれもありますので、未見の方はご注意を!
1654年(順治11年)5月4日(3月18日)
康熙帝・玄燁(げんよう)順治帝の第3子として生まれる
1661年2月5日
康熙帝8歳で即位する
1673年(康熙12年)三藩の乱
1674年(康熙13年)
第2皇子・胤礽、2歳にして皇太子となる
1678年(康熙17年)12月13日(10月30日)
第4皇子・胤禛生まれる
1681年(康熙20年) 三藩の乱を鎮圧
3月29日(2月10日)
第8皇子・胤禩生まれる
1686年(康熙25年10月1日)11月16日
第13皇子・胤祥生まれる
1688年2月10日(康熙27年1月9日)
第14皇子・胤禵生まれる
1704年(康煕43年)
若曦に張曉が入り込む
1708年(康煕47年)
皇太子、地位を剥奪され投獄
第8皇子、貝勒爵剥奪
第1皇子・胤禔、皇太子を陥れた罪で投獄
1709年(康煕48年)
第2皇子、復権
1711年(康熙50年)9月25日(8月13日)
後の乾隆帝・弘曆、第4皇子の第4子として生まれる
1712年(康煕51年)
第13皇子、幽閉
皇太子、再び廃立・幽閉
若曦(22歳)、浣衣局へ移動
1716年(康熙55年)『康熙字典』成立
1718年(康熙57年)
第14皇子、題撫遠大将軍として青海西寧に派遣
1722年(康熙61年)
康熙帝、病で倒れ、若曦(34歳)、戻る
12月20日(11月13日) 康熙帝崩御、68歳
12月27日 胤禛、45歳で皇帝に即位
兄弟の名を世宗の諱”胤”を避けて、”允”に代用
第13皇子幽閉、解かれ、怡親王(37歳)とする
允禩、廉親王(41歳)とする
最高政治会議を設け、最高委員として廉親王、怡親王、
馬斉、ロンコド[隆科多]の4名を任命。
1723年(雍正1年)
4月第14皇子召還、康熙帝陵守護として湯山へ
第9皇子・允禟を西寧に派遣
雍正帝の生母・孝恭仁皇后(仁壽皇太后)没
若曦(35歳)、懐妊
1724年(雍正2年)
4月第10皇子允䄉、爵位剥奪
若曦、第14皇子へ嫁ぐ
1725年(雍正3年)
1月(雍正2年12月14日)廃太子没
4月年羮尭、杭州将軍に左遷
12月 年羮尭、九十二ヶ条の罪状で死を賜る
1726年(雍正4年)
4月廉親王をアキナ[阿其那](意味は犬)と改名
5月允禟をサスヘ[塞思黒](豚)と改名
6月アキナの罪状40条、サスヘの罪状28条、允禵の罪状14条を弾劾
8月サスヘ”病没”43歳 10月アキナ”病没”45歳
1730年(雍正8年)
4月怡親王没
1735年(雍正13年)
10月8日(8月23日)雍正帝崩御、58歳
乾隆帝即位
1748年(乾隆13年)
允禵、恂勤郡王とする
1755年(乾隆20年)2月16日(正月)恂勤郡王没67歳
1778年(乾隆43年)乾隆帝により、允禩・允禟復権
この記事へのコメント